Log of ROYGB

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人工妊娠中絶と一貫性

一貫性という観点から妊娠中絶に関する意見について考えてみたいと思います。


まず、中絶は殺人であるという考え方。
中絶が殺人であるのならば、胎児は人間であるということですが、中絶以外の場面で胎児を人間と扱うのであれば一貫性があり、そうでなければ一貫性がないとなります。
例えば、胎児には名前も戸籍も無いが、これを問題にしているかどうか。
ある人が、名前も無く戸籍にも登録されずに育てられていたとしたら、これは基本的人権の侵害でしょう。もし胎児が人間であるとするのならば、胎児に名前や戸籍が無いことは問題ではないのでしょうか。
他には妊婦が事故にあって流産した場合に、事故で人が死んだときのように過失致死などが適用されないことについてはどうでしょうか。また事故に限らず何らかの原因で流産した場合は、胎児の葬式なども人が死んだときと同じように行うのでしょうか、妊娠初期でほんの数ミリの胎児だったり、それこそ受精卵に近い段階での化学流産の場合などでも。
宗教的な面だと、胎児の段階で洗礼を受けるなどしてその宗教の信者になることが出来るのだろうかとか。
こういった事柄について、胎児が人間であるということと矛盾の無い考え方をすることが出来るかどうかによって、中絶は殺人であるという意見に一貫性があるかどうかが判断できます。


中絶を容認する意見に対しても同じように一貫性について考えることができます。
時期の違いはあれ、中絶を容認する場合は、その時点の胎児は人間ではないとなります。もしくは殺してもかまわない人間ですが、ここでは人間ではないとして話を進めます。でも言葉を入れ替えればころしてもかまわない人間の方でも成り立つかも。
ある条件によって人間ではないと判断することは、中絶だけでなく脳死尊厳死などにも関わってきます。妊娠中絶を可能にする考え方で、人間ではないとされた病人などの生存を中絶させることも出来てしまうからです。
妊娠中絶から可能にされるものは、通常考えられる回復の見込みのない場合の尊厳死だけではありません。中絶される胎児は、そのまま育てば人格や権利を備えた人間になる可能性があるからです。これと同じ考え方をするならば、回復の可能性のある病人であっても、ある時点で人格を失っていると判断されたら、そこでの中絶が可能だということです。


一貫性など無くてもかまわないという考え方もあるでしょうが、一貫性があったほうが意見の妥当性というか普遍性は高まるように思います。例えば、立場を入れ替えると成り立たなくなる意見と、立場を入れ替えても成り立つ意見であれば、後者の方が一貫性があって妥当に感じます。
また、一貫性が無いように感じられる場合でも、同じにならない理由が説明できることもあります。ある面から見ると一貫していないように見えるけど、別の面から見るとそうでもないという感じでしょうか。