死ぬ気で働く
死ぬ気で働くというのは、死ぬこととは直接関係ありません。一生懸命に働くというようなのと同様と解釈するのが適当でしょう。
一生懸命の懸命というのにも命を懸けるという意味はほとんどありません。語源としては鎌倉武士が所領を命を懸けて守るという一所懸命からきているので、全く命と関係ないわけでもないのでしょうが現在では生死と関係ある場合の方が稀でしょう。
あえていえば、相撲の行司には命を懸けて仕事をしているという形式が伝統として残っています。立行司は短刀を差しているのですが、これは差し違えがあった場合には切腹するという意思を示しているそうです。あくまでも決意の表明であって、実際に切腹した行司はいません。
他の仕事においても、「腹を切ってお詫びをしたい」という言葉が使われる場面があったとしても、実際に切腹するわけではありません。しかし、そのくらいの決意をもって仕事に望むことも時には必要なのかもしれません。
とある企業の採用面接
「次の方どうぞ。」
ドアから入ってきた志望者をみて、息をのんだ。リクルートスーツではなく、和服、それも白の裃に身を包んでいたからだ。
「どうぞおかけ下さい。」
内心の動揺を隠してなのか、落ち着いた様子で声をかけたのは人事部長だ。さすがというか、伊達に部長ではないのだと感心した。こちらは机の端の方に座っているだけだから気楽なもので、どうなることかと興味深く眺めていた。
「ずいぶんと変わった格好ですが、なにか意味があるのですが。」
と部長。この状態でも普通に面接を進めるつもりか。
「これは、決意をあらわしたものです!」
と志望者の男。声が少し上ずっていて、決闘でもしそうな雰囲気である。
「ほう。その決意を聞かせてもらえますか。」
「はい。私は、仕事に命を懸ける決意をもってきました。」
命を懸ける決意って、切腹でもするのか。あっ、本当に短刀を取り出したよ。
「御社に採用されなければ、この場で腹をきる所存です。」
「あ、しばしまたれよ。」
と、何故か時代がかった口調になってしまう部長。
「まず話を聞こう。当社を志望された動機をお聞かせ願いたい。」
「はっ。私がこの身をささげるのは、御社しか無いと思いました。入社の暁には、一生懸命いや一社懸命に働く所存でいます。」
やれやれ、大丈夫かね。ちょっとどうかしているよこの兄ちゃんは。でも一社懸命というのはわりと良いフレーズかも。
「もう少し具体的な動機を、」
と部長が言いかけるが、男は椅子から立ち上がり床に座り込むと短刀を手に取った。
「ちょ、ちょっと待ちなされ。」
あーあ。これで本当に切腹でもされたらえらい騒ぎだ。会社になにか原因があるのだろうとかあらぬことを新聞に書き立てられたりしそうだ。
それに切腹ならまだ良いって良くはないが、短刀を振り回されたりしたらえらいことだ。あれ、部長それに他の皆もどこに行くんですか?
「申し訳ないが急な会議があるので、私はここで失礼する。」
部長は後ずさりしながら後ろのドアのほうに近づいた。他の皆もあとに続いている。そうだ、早く逃げなきゃ!
あ、足に力がはいらない。
助けを求めるように部長のほうを見たが、何を勘違いしたのか、
「そうか、あとは君にまかせた。」
と言うが早いかドアの奥に姿を消した。何か言おうとしたが声がでない。
「されば、」
床に座った男はこちらに向き直り、
「部長殿がそういわれたからには、あとは生きるも死ぬも御身に委ねまする。」
そう言うと床に手を付き、じっとこちらを見つめる。ああ、どうしたらいいのか。
もしここで不合格にしたら、「この間の恨み、覚えたか!」とかいって切りかかられそうだ。忠臣蔵か。
でもそうなったら新聞にあることないこと書かれるのか。そういえば、履歴書は手書きがいいかプリントアウトがいいかという問い合わせがあったけど無視したこととかも記事になったり…。
「いかにっ!」
ぎゃ。もう合格でもなんでもいいから言って、この場を切り抜けよう。
合格と言おうとしたが、声がでない。テープルの上に置いてあったペットボトルのお茶を飲もうとしたが、手が震えてなかなかつかめない。それでもようやくこうやくフタを開けると、一口含んだ。
「ごっ、」
なんとか声がでた。
「ごっ?」
と床の男。
「合格でござる。」
ござるってなんだよ、と自分で言ってて思う。
「されば、御免。」
男は床から立ち上がると、急いで出て行こうとする。
「そんなに急いでどこに?」
と思わず聞いてしまう。どこだっていいから早くどこかに行って欲しいのに…。
「まだこれから何社かまわる予定がござる。」