Log of ROYGB

はてなダイアリーが廃止されるので、引っ越しました。

決定論

http://d.hatena.ne.jp/REV/20070806/p1の「REVの日記 @はてな - 私という、議会制民主主義国家」で紹介されていた、http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50886561.htmlの「404 Blog Not Found書評 - 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか」に関して。

なにしろ、「私」の存在は、現時点においては「神」の存在以上に人類社会の根幹を成しているのだ。法律はその好例で、そこは自由意志の存在をあまりに当然のこととして仮定している。しかし決定論を認めてしまえば、実は法律は不要、というより「物理」という理がすべて「あるがまま」にしてくれるのだから、「倫理」は余計ということになる。そこには「死」はあっても「殺」はない。その人は殺されたのではなく死ぬべき定めにあったというのであれば、刑法など不要ではないか。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50886561.html


決定論ならば法律は不要という考え方は、少し変な気がします。上で引用した少し前で“著者は「心」も「自分」も脳というドーナツの穴にすぎない、と言っておきながら、実にカジュアルに「私」という一人称や、「考える」という自動詞を使っているのだ。”と批判しているのと同じように、自らの前提を覆しているように思えます。
つまり決定論に沿って考えるならば、法律もまた決定論により決まっているわけです。その人は殺されたのではなく死ぬべき定めにあったと考えるならば、犯人は法の裁きを受ける定めにあるのではないでしょうか。ある現象を決定論として「あるがまま」に受け入れるのにそれ以外を余計なことなどとしている点が、少し辺だと感じた理由です。


受動意識仮説にしても非常に面白くはあるものの、世界5分前創造説と似たような無意味さも感じます。例えば、行動のあとにニューロンが反応することをもって意識が行動のあとに来るというのは、ニューロンの反応を意識だと仮定しているわけです。ニューロンの反応を起こす何かがあって、それが意識かもしれません。いまのところ、意識と関連していそうな物理現象を調べることはできますが、意識そのものを調べることはできません。
意識とは何かが判明すれば、それを直接観測することで確かめることはできるでしょうが、その特にはもう意識が何かは判明しているのです。



前に書いた関連ありそうなもの
自由意志