Log of ROYGB

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食べても無くならないお菓子

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/05/post_1159.phpの「MORI LOG ACADEMY 打合せ多数&補足」で書かれていた事に関して。

2点め。小説著作権が特異な点は、知ることで消費が達成される商品であることだ。ほかの多くの発明などのアイデアは、それを知っても、応用や使用を伴わなければ価値が生じない。また同じ創作でも、音楽などは1度聴いて「知った」からもういらない、というものではない。小説も、何度も読みたい人は本を手放さないだろうが、それはごく一部のマニアであり、多くは、1度読んで、「知る」ことで消費される。
 わかりやすい例を挙げるならば、たとえば、「クイズ」が類似しているだろう。もの凄く面白いクイズを誰かが考えたとしよう。しかし、問題と答を聞いただけで「知られて」しまうので、たとえば、本にして発表しても、立ち読みされたり、TVなどで形を変えて真似をされたりしたら、価値が失われてしまう。すると、そのクイズの知的所有権を持っていても、作者に充分な利益が還元されないことになり、結果的にそういったクイズを考えても儲からない社会になるから、才能がある人間はそんな割の合わないことに努力をしなくなる。著作権の議論とは、そもそも「社会がどんな文化を育てたいのか」という方向へ行き着くものだ。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/05/post_1159.php


小説を何度も読みたい人がごく一部のマニアだとして、小説を読んでいるのもその一部のマニアなのではないでしょうか。それ以外の人が読むのは、ごく一部のベストセラーくらいか。というよりは一部のマニア以外が読む小説がベストセラーになるということでしょう。
映画なども一度見ればいいという点で、リンク先で特異だとされている小説と似ている気がします。他のものについて1度で十分なのか何度でも繰り返して体験したいかといった観点で考えるのも面白いかも。そうすると費用についても1回あたりにするとどうなのかなんてことも気になってきます。
そういえば、マニアでなくても2度読める小説というのもありました。買った状態だと短編として読め、袋とじになっている部分をカットして開くと長編として読めるというものです。袋とじを開くと短編小説は消えてしまいます。そういう本を買うのがマニアだと言われてしまえばその通りですが。


読んだ小説を捨てるということについて、以前に書かれていたhttp://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/05/post_1136.phpの「MORI LOG ACADEMY イラストレータの待遇」と少し矛盾があるかもと思いました。まあ、お菓子のパッケージのデザインなどと同じと考えればいいのかも。お菓子のパッケージや包装紙を捨ててしまうとしても、デザインがどうでもいいとは限らないからです。小説の場合は、食べても無くならないお菓子みたいな気もします。
同じ小説でも文庫新書単行本といった形態の違いで値段が違いますが、これはどういう理由によるものでしょう。いったい何の価値が違うのでしょうか。その辺のことはhttp://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/01/post_234.phpの「MORI LOG ACADEMY 印税」にも書かれています。

本の値段(消費税込)×発行部数×印税率が、著作者への支払われる(書くのは4回目だが)。これを一般に「印税」という。印税率は、書き下ろしは12%、雑誌に載ったものの再録や文庫化などの場合は10%が普通。たとえば、2000円の単行本が、50000冊刷られれば、2,000×50,000×0.12=12,000,000円が作家に即座に支払われる。本が何冊売れるかは無関係であり、作られた部数によって計算される。少し不思議なのは、本の値段が高いと、作家にも沢山支払われる、という点だ。書いた作品には関係のない要素だと思えるが……。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/01/post_234.php


ここで不思議なのは、印刷した部数について印税が支払われることです。印刷した本が売れない場合は、その本を読んで価値を得る人がいないことになるからです。もっといえば本を買っても読まなければ消費が達成できないとわけで、消費が達成された段階で著作者に対する対価が支払われるべきだという意見もあるかもしれません。


著作権というものは昔はなかったようです。だから今も無くてもいいということをいいたいわけではありません。基本的人権が無かった時代もありますが、だからといって今も無くていいということではないからです。


(19日追記)

以上の話は、すべて未来に向けてのことだ。僕は数年で小説の執筆を辞める予定なので、僕自身にはなんの影響もない。これらの問題は、社会がこれからの才能をどう育てるのか、という判断に委ねられる。小説なんか外国から輸入すれば良い、とみんなが考えるならば、まったく無用である。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/05/post_1159.php

外国の状況が、日本とどう違うのかという点に興味があります。図書館や古書店は外国にもあるだろうし。アメリカでは、書評家などに送られた宣伝用の版が安く売られているというのを読んだこともあります。
また、小説を外国から輸入することは現在も行われているしそれが悪いことだとは思いません。それに小説を書いたのがどこの国の人かというのは、小説の価値とは関係なさそうです。
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/05/post_1153.phpの「国境」に書かれている“
国境が県境みたいに将来なったら良い”とうのが実現したら外国からの輸入という概念も今とは違うものになるでしょうが。