Log of ROYGB

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非実在問題と現実

http://deztec.jp/z/dw/j/index.htmlの「ハーバード白熱教室ノート」を読んで感じたこと。番組は見ていません。*1
主たる内容というよりは、細かな部分に関して。

この先、いちいち繰り返さないが、こうした哲学の問いにおいて、問題設定の外側に解決策を求めることは、ここで考えたいことから逃げるだけで意味を成さない。

http://deztec.jp/z/dw/j/practice01.html


この考え方は、ある程度妥当だとは思いますが、それだけでは無いとも考えます。問題のエッセンスを抽出して抽象的に考えるならば、複数の問題はひとつのことを問うているだけです。

多くの人に危害をもたらすことを避ける唯一の方法が、少数の人を傷つけることである場合がある。多数の人に危害をもたらすことを避けるために、少数の人を傷つけることは許容されるか?

http://deztec.jp/z/dw/j/practice01.html


ひとつの問題を、具体的ないくつかの問題すろと、それらが必ずしも同じ回答にならないわけです。そこに違いを見つけて、それを抽象化すると、ささいな行為によって間接的に人の命が奪われることは容認されるとしても、直接に人の命を奪う行為は容認されないなどといったことになったりするわけです。


具体的なこととして考えるのには、ある程度の現実味が必要です。現実の問題として考えるならば、皆が助かる道が本当に無いのかを考えることがまず必要です。少し考えただけで他の方法を考え付くような問題は、あまり練られていないということもできます。そんな問題で単に選択肢を選ぶだけでは、単なるゲームに近くなって現実味が薄れてしまいそうです。
ただ、問題に穴があった場合でも、それによって無効にするよりは、自分で穴を塞ぐ方法を考え、その上でどう選択するのかを考えたほうが建設的だとは思います。


「Lesson3/4 復習」*2では、そういった観点からも書かれているように感じます。現実は、単純な二者択一にはならないわけです。

大阪府が予算不足を理由に生活困窮者支援の予算を渋りつつ、目抜き通りのライトアップを補助して一部の市民団体から批判されたけれども、大阪府民は橋下徹知事のバランス感覚を支持した。状況を限定して、二者択一で「どちらを選ぶか」と迫る場合と、現実の予算配分とでは、問題の意味が違ってくる。

簡単にいえば、「どこかに困っている人が一人でも残っている限り、一定の生活水準を実現できている人のためには1円も税金を使うべきではない」という意見に納得できるかどうか、という問題。現実には、そのような方針では政治は大衆の支持を得られない。不自由なく生活できている人にもかなりの程度の市民サービスをしていかねばならない。

http://deztec.jp/z/dw/j/practice02.html


限定された条件の問題と現実とでは同じにならないとして、問題の結果をどう適用するのかには恣意性が出てくることもありそう。どういった方法によって適用するのかというのにも議論が必要かも。
問題の設定自体にも、恣意性は入り込む。自分の思う結果になるように設定した問題を出すことも可能。
同じ問題であっても、立場が変わることによっても答えが変わる場合も。最初の電車の問題で、本線上の5人を救うために待避線上の1人を犠牲にするという選択をする場合は無意識であっても運転手の立場に自分を置いている。自分が待避線上にいると考えても同じ結論が出るだろうか。

*1:早川書房から5月に『これからの「正義」の話をしよう』とう本が出るので、これは読むかも。

*2:http://deztec.jp/z/dw/j/practice02.html