Log of ROYGB

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考える目的

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/12/post_1581.phpの「MORI LOG ACADEMY 本当に考えたの?」に関して。

 「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/12/post_1581.php


「考える」ということの訓練や指導の方法としては有効のように思いますが、単に考えればそれでいいのかというとそうでもないように思います。
似たようなことに「努力」というのがあります。努力することの大切さというのは、よく言われています。これも学校などの教育の目的には有効でしょう。なぜ努力が大切かというと、望む結果を得るための方法としてたいていの場合にもっとも確実でしかも楽な方法だからではないでしょうか。楽な方法というと異論がでそうですが、努力以外の方法で楽にやろうとすると望む結果が得られなかったりかえってたいへんだったりすることが多いようです。つまり「努力」するのは望む結果を得るための手段として有効だからです。だから努力すれば結果はどうでもいいということは無いのです。
これは社会における殆どのことに当てはまります。なんらかの商品を作るのに、努力したけれど不良品では誰も買ってくれません。電車やバスなどの運行や品物などの配達で、努力すれば結果はどうでもいいなどということはありません。
「苦労」ということも「努力」と似ています。必要な場合の苦労を避けるべきではありませんが、苦労することは目的ではありません。苦労自体を認めるなんていうことは、訓練や教育の場面以外では無いでしょう。

「考える」ということについても同じようなことがいえるのではないかと思います。「考える」ことの有効性や方法を理解できない人に対して、まずなんでもいいから考えろというのは、良い教育方法ではないかと思います。なんでもいいから考えて具体的な案を出すことが、「良い案」を出すために有効な手段だからです。沢山の案を考えているうちに考え方がうまくなってき、沢山の案を比較することで良い悪いを判断する力も身に付くでしょう。でも、この場合の目的は「良い案」であって「沢山の案」ではないということも、頭のどこかに残しておいた方がいいのではないかと思います。