Log of ROYGB

はてなダイアリーが廃止されるので、引っ越しました。

「正しいこと」ということ

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20080228#p1の『スモールトーク-「正しいこと」の牢獄 - 琥珀色の戯言』に関して。
前に読んだ『「おろかもの」の正義論』という本に書かれていた「暗黒的正義観」という言葉を連想しました。

 わたしがすっと考え続けている「正しさ」は、勝ったり負けたりしないものだ。勝ち負けは争いを前提にしている。だが、争わないことにこそ「正しさ」はあるんじゃないか。
 すべてを生かす。わたしが目指す「正しさ」とはそういうものだ。

『「おろかもの」の正義論』16ページより引用。


「正しさ」とは何だろうということは、なかなか難しい問題です。善と悪のように対立する物がある場合に、悪とされるものに対する物が「正しい」とするのは比較的わかりやすいですが、それは『「おろかもの」の正義論』で「暗黒的正義観」と呼ばれています。

それは、正義を暗黒、悪を光として扱うものだ。光があって、はじめて影が生じるのだから。悪という炎を消してすべてを闇に返すのが正義である、というのはもちろん少しばかり皮肉を込めた言い方なのだが。

『「おろかもの」の正義論』15ページより引用。


なにが「正しいこと」なのかというのはなかなか難しい問題です。

「私の言うこと、何か間違ってる?」

 そう、君の言うことは、常に正しい。

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20080228#p1


こういう質問を受けたときに、それを質問として解釈して回答を考えるのは「正しい」対応とはいえないでしょう。質問文の形をしていても、意図としては「自分の主張を認めろ。」というようなものでしょう。だから対応としては引用文のように、相手の主張の正しさを認めるのがひとつの方法でしょう。もうひとつは相手の意図を問いただすやりかた。「それって質問?」とか「もう少しわかりやすく言ってよ。」のように。もしくはその前に何かをするように、例えば部屋を片付けるように言われていた場合は「どうして部屋を片付けないといけないのか?」なんて子供みたいな質問をするなんてやり方もあるでしょう。

大人でも、質問を質問としてではなく言い訳や非難、否定のために使うことがあります。「これはどうしてですかっ!」といっている人に、質問に対する回答を言うことはあまり意味がありません。かといって子供に対するように「どうしてでもっ!」ということも出来ないのが悩ましいところです。

http://d.hatena.ne.jp/ROYGB/20080221#why


ところで、これはフィクションなのかノンフィクションなのかということが少し気になりました。前の日には『「ブログと「常連客」-「でも、これ実話?」 - 琥珀色の戯言』というエントリーが書かれているので、それを踏まえて意図的にフィクションともノンフィクションともつかない形式がとられているようにも思います。もしかして“仕掛けてる”のだろうか、それともそうではないのだろうかとか。

 それが「物語」である限り、「ノンフィクション」も「フィクション」も受け手にとっては、「ひとつの情報」にしか過ぎません。大事なのは、「それが事実かどうか」よりも、「その話から、何を感じ、何を生かしていくか」なのです(あるいは、「楽しければ事実でも嘘でもどっちでもいいや、というスタンスもあり)。

 「実話じゃないから意味がない」と全否定するというのは、「実話だから鵜呑みにする」というのと、結局のところは似たようなものだと思われます。

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20080227#p2


とはいってもあまり深読みしすぎるのもまた考え物で、時には「ケータイ小説」でも読むように、シンプルに書かれていることだけに心をゆだねてみるのもまた楽しいのかもしれません。



「おろかもの」の正義論

「おろかもの」の正義論