Log of ROYGB

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無学礼讃

http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1の『「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記』を読んで思ったこと。


ブックマークコメントにも書いたのですが、アシモフのエッセイで似たようなことを読んだ記憶がありました。本棚を検索*1したところ「生命と非生命のあいだ」に収録されている「無学礼讃」という話です。あるTV番組を見たアシモフはこう書いています。

だがしかし、次の朝の落ち着いた薄暗い光の中で考えてみると、この劇は、いわば無学の礼讃とでもいった、偉大なるアメリカの類型を唱導しているのだった。その類型によれば、無知であってこそ幸せは見つかり、教育は野暮なものであって人生の幸福の多くを取り逃がさせてします、というのである。


アイザック・アシモフ著「生命と非生命のあいだ」収録の「無学礼讃」より引用。


このあとで、文学における“悪童”の類型として、トム・ソーヤなどを例にあげています。
このエッセイが書かれたのはだいぶ昔で、[追補]としてソ連スプートニク1号が打ち上げられたあとは、無学礼讃が逆に攻撃されるようになったと書かれているほどです。そして、物事は二度と昔のようには戻らないだろうとされていますが、この予想は残念ながら当らなかったようです。


もう一つ思ったのは、「勉強ができる」と似たような立場に「お金をもっている」というのがあるのではということです。お金をもっていることは、悪いことではないはずなのに「お金持ち」というのは蔑称とまではいかないまでも揶揄するように使われることが多いのではないでしょうか。文学作品でも、お金があることの不幸せや、貧乏な幸せを描いたものは事欠きません。トム・ソーヤはもしかしたらお金持ちになって幸せだったかもしれませんが、友人のハックルベリーは逃げ出しました。
そういったある意味で屈折した評価を受けているという共通点のほかに、その有用性という意味でも勉強が出来ることとお金があることは似ています。


学校で勉強が出来た結果として良い仕事を得ることができた場合は、勉強という原因の結果としてお金が得られたと見ることもできますが、勉強の為にはお金をかけることも有用なようなので、単純な原因と結果というわけでも無さそうです。
そして両者の関係が深いことも事実でしょうが、勉強のできる人がお金とあまり縁の無い生活をしたり、お金持ちの人が無学無教養だったりすることもあるようです。



*1:人力で